ケンローチ、ケンローチ、……あぁやっぱりケンローチ、もっともっとケンローチ

ある無名の人生の一端。メンテナンスに生真面目にエネルギーをかける人ではなかったから、これすべてで5千円。次に使う人がいるわけではなく、おそらく部品取り程度なのでしょう。 彼が爆笑した印象がぼくにはそれほどはない。でも笑顔は覚えている。この写真を今日の投稿に選んだ後に、彼がケンローチと同い年だったことにさっき気がついた。少しだけびっくり。(この写真はTが撮ったもので、無許可で使ってしまいました、事後承諾とれると信じて)

(この投稿をメールで受け取っている方々へ。表題の青い文字をクリックすれば、ブログのページに画面が変わるはずです。そちらのほうが読みやすいし、表題につけている写真も写ります。)

まずは恒例の言い訳めいた書き出し

 ケンローチ(Ken Loach)、1936(昭和11年)の生まれです。私にとっては父のような世代の人です。敬愛する英国の映画監督です。 

ケンローチ近影

 ぼく自身が60歳が近くなってきて、さらにぼくよりも年上の人のことを書くのは、なんか爺くさいですわね。「影響を受けた人」として自分より年上の人のことを書いても、どうしたって若い読者はついてこれない。イケてないわけです。
 ホントは、もっと若い世代のことを書かねばいけない。たとえば、映画監督ならジョンカーニー(John Carney)なんてどう? 彼の映画から、ぼくはケンローチの匂いをとっても感じるんです。だから、ジョンカーニーの映画はいいですよ! ケンローチより、ずっとお洒落で弾んでいるし(といっても映画はまだ3本しか撮ってないのかな。ジョンカーニーがどんな映画を撮っているか、興味がある方はご自分で調べるよ―に。損はさせないですよ、見たらわかるけど彼の映画のキーワードは“音楽(ミュージック) ”です)。
 あるいは日本の映画監督なら是枝裕和さんが、ケンローチのファンであることを公言しているそうですね。是枝さんの映画、すべては見ていないけれど、素敵な映画撮られてます。『幻の光』(1995)、『誰も知らない』(2004)、心に残っているよぉ。そして、なるほど、彼の映画とケンローチは確かに親和性高いですよ。
 想田和弘さんの観察映画からも、ケンローチが溢れてくる。映画でなくとも、たとえば物書きのブレディみかこさんも、その一部はケンローチでできているんじゃないかな、勝手な想像だけれど。きっと世界には、ケンローチの子どもや孫がぞろぞろと今も生まれ続けているに違いない。

 と、ジョンカーニーや是枝裕和らの名を出して、ちょっと若い世代?に媚びてみました。って、カーニーは1972年生まれ、是枝さんは1962年生まれ、想田さんは1970年の産、ブレディさんはmade in 1965、つまりみーんなぼくと同世代だなぁ。もっともっと若い人で、話題にできる人たくさんいるはずなんだけど。とにかく、今日はケンローチ。
 ケンローチで押し切るので、よろしく。

 前回の“義勇兵”のことを書いた投稿の中で、ケンローチの『大地と自由 Land and Freedom』(1995)についてちらっと触れました。それがきっかけでケンローチ自身のドキュメンタリー映画(『ヴァーサス/ケン・ローチ映画と人生 Versus The life and films of Ken Loach』(2016))を見てしまいました。

 彼について知らないことを学ぶ豊かな時間となりました。でも、もしあなたがケンローチの映画とまだ出会っていないのであれば、くれぐれも『ヴァーサス』なんか見てはいけません。まずはどうぞ彼の映画そのものを見てくださいませ。

さて、どの映画をお薦めしましょうか 

 さて、何がお薦めかなぁ。やっぱり、彼にとって劇場映画デビュー作である『ケス(Kes)』(1969)は、ぜひ。これは素晴らしい映画ですよ。もしケンローチで一本と聞かれたら、ぼくは『ケス』と答えちゃうかな。

 彼の映画、数ある中で、一番有名なのは『麦の穂をゆらす風(The wind that shakes the barley )』(2006)でしょうか。カンヌ国際映画祭という映画の祭典で金賞を授賞した作品です。さらに、同じテーマでは、先にあげた『大地と自由』もとても素敵。
 どちらも戦争の虚しさを描いて秀逸です。スペイン戦争を描いた『大地と自由』、辛い映画ですけれど最後にちらりと希望があるんですよ。ところが、この『大地と自由』の後に撮られたアイルランド紛争を描いた『麦の穂をゆらす風』は、見たときにぼくはケンローチにはもう絶望しかないだと痛感したのです。銃を取るという行為に、もはや一切希望は残っていないと。それぐらい最後まできちっと“戦争”の虚しさを描いて、そこになんの救いも残さない。その救いのなさに、映画館出て、ぼくはもうげっそりだったことを今でも覚えています。
 今になって思い返すと、そこが『麦の穂をゆらす風』の凄みなのです。先日のテーマで書けば、戦争に理想もへったくれもない。取り込まれたらもう殺し合うだけ。しかも、やがては味方同士ですら殺し合う。必ず組織という怪物がいて、そして組織は個人の思いなどお構いなしに裏切る、裏切る、裏切る。つまり、義勇兵とか、正義のため、独立のため、侵略者に立ち向かうとか、そういうことをどんなに言っててもダメなのだ、武器を取るというのは殺し合いだと、傷つけることだ、そこに希望など一切ないことを『麦の穂をゆらす風』でケンローチは描き切った。
 でもね、夢も希望も一切否定する映画は見ていて辛いばかりです。金払って、時間をかけて、辛い思いして、何のために、と思うよ。その点では薦めにくい。

 そうそう、どのケンローチ作品がお薦めかなぁでしたね。
 ぼく自身は、どうやってケンローチと出会ったのか、記憶が曖昧です。先に書いた彼のデビュー作『ケス』が英国で上映されたのは1970(昭和45)年、私はまだ小学生です。このときに見たわけではありません。この映画、日本ではすぐには上映されていないみたい。調べてみたら、日本で初めて上映されたのは映画が作成されてから20年以上経った1996(平成8)年?じゃ、そのときに、ぼくは観たのだろうか?なんとなく、岩波ホールで見たような気もしてきました。そうか、そうだとしたら思っていたよりもケンローチとの出会いはわりと最近のことなんだ、といっても20数年前ですけれど。自分でもちょっとびっくり。そうか、ケンローチに出会ったのはもうぼく自身30歳過ぎてからだったのだなぁ。なんか10代のころから知っていたような気になっていました。 
 ケンローチの映画、もしかしたら『レディバード・レディバード(Ladybird Ladybird )』(1994) を『ケス』よりも先に見たのかもしれません。こちらも日本での上映は1996年です。ちらりと書いてしまえば、30代前半というのは、ぼくの人生では辛く厳しい時期なんです。大転機・大革命で精神大揺れの時代なの。そんなときにケンローチの映画がどーんとぼくの心に響いちゃったのかもしれません。
 『レディバード・レディバード』、日本語に訳せば『てんとう虫・てんとう虫』という素晴らしく美しいタイトルのこの映画、とても悲しい話なんです。児童相談所(英国でなんというか知りませんけれど)に子どもたちを奪われてしまうアルコール依存症の母親が主人公でした。児童相談所側からすれば、子どもたちを守るためにしていることではあるのです。児童虐待が長らく社会問題になっている今の日本社会の状況から見ても、育児に問題がある母親がどうしたってまずい。でも母親の人生に寄り添えば、そこに広がる景色はずいぶんと違って見える。つまり、ケンローチの視点はいつも弱い側にあるのよ。

 『マイ・ネイム・イズ・ジョー (My name is Joe)』(1998)も、『Sweet Sixteen 』(2002)も、『わたしはダニエル・ブレイク(I, Daniel Brake )』(2016)、最新作『家族を想うとき(Sorry we missed you )』(2019)まで、その弱者に寄り添う視点は一切のブレを見せません。だから、どの映画も物悲しく、厳しい。だから、絶賛お薦め!とふれまわりたくなる映画ではけしてない。

 それなら『エリックを探して(Looking for Eric )』(2009)なんてどうでしょう。ケンローチには珍しいなんとも抱腹絶倒の喜劇です。エリックカントナというサッカー好きなら絶対知っているはずのサッカー選手がおります。1980年代から90年代に大活躍したフランス代表にも選ばれた名選手です。ぼくはサッカーは不得意分野であまり語れないのですけれど、聞くところによればカントナはとっても個性的な選手だったみたい。『エリックを探して』は、そのカントナが、カントナ役として登場してしまう痛快無比な映画なんです。杉山さん(と、突然サッカー好きの元仕事仲間の名を出してしまう)、カントナ大好きでしょ? もう見ました? まだ未見ならぜひ探し出して見てくださいよ。喜劇とはいえ、そこはケンローチの弱者応援の香辛料もピリピリ効いています。元気が一番出るのは、これかなぁ。
 あるいは『やさしくキスをして(Ae Fond Kiss… )』(2004) という恋愛映画はどうでしょう。この映画、至極まっとうな恋愛もの。しかも、移民問題もからむ。もしあなたが『ベッカムに恋して(Bend it like Beckham)』(2002)という痛快ストーリーをご存知であれば、あれをもっと大人の恋愛にしてケンローチ風に味付けすると『やさしくキスをして』になるのだとご紹介しておきます。そして、そこで描かれるのは「恋愛はSexでしょう!」ということなのです。ビバSex!? べつにポーンムービー(いわゆるエロ映画)ではありませんよ。ご家族一緒でも、大丈夫です。でもね、恋愛ってさ頭で考えるだけではダメだよね、身体ってとっても大事だよね、ってメッセージを私は確かに受け取ったのですよ。裸になれば皆同じ、小さな存在、そんな弱い存在同士が肌を合わせてそっと生きている。そして、ぼくはそれにすっかり共感・満腹したのです。
 あるいは『ルート・アイリッシュ(Route Irish)』(2010)はどうかな。こちらはイラク戦争の民間傭兵をとりあげた社会派サスペンスです。この映画では、「殺す」ことがぐっと前面に出てきて、もしかして時と場合によっては巨悪への復讐はありだとケンローチは言っているようにも思える…、でも、最後の最後にはそれも誤読だよと戒められているようにも思えるし。とにかく、ケンローチ作品では珍しくオトコ臭漂う映画です。
 あと、私はまだ観れていないのですが『天使の分け前(The Engels’ share)』( 2012)は、弱者に寄り添いながら、ケンローチ作の中ではめずらしめの最後はスカッと爽快感という内容らしいです。ハッピーエンド(らしい)。

 この『天使の分け前』の爽快感は、主人公の泥棒行為が大成功ということなんですよね。
 『天使の分け前』に限らず、ケンローチの映画を「泥棒、つまり人のものを盗むという行為、に対して、共感が過ぎる、盗まれた側からすれば、とんでもない!!」と批判する向きもあります。うん、そうね。確かに、彼の映画では“盗む”というシーンが少なからず出てきます。盗む以外でも、小さな暴力や、迷惑行為も多い。でも、それらはすべて大きな“搾取”によって虐げられた人々による止むを得ない発露なんですよ。そして、それがときには痛快に描かれる。たしかに視点が変われば、迷惑な話。
 『この自由な世界で(It’s a free world… )』(2007)では、ケンローチはこの“搾取”という問題に真っ向から取り組んでいます。社会的弱者である主人公(女性)は派遣業という人買い業で人生を切り開こうとする。この映画では主人公の「盗む行為」に爽快感はありません。彼女の小さな“搾取”によって、また他者に小さな不幸が生まれていくという無情のつながり。でも、彼女を搾取という行為に導く大きな“搾取”、巨悪、があるわけです。彼女は、そんな罠にかかったような搾取の連鎖の中でもがいているだけ。そんな彼女を批判できるのか?と、ケンローチはぼくたちに問う。
 ケンローチが好んで描く“盗み”に眉をしかめるというのは、つまりイタリア映画の名作『自転車泥棒』(1948)やイラン映画の名作『運動靴と赤い金魚』(1997)、もっと遡ればチャップリン映画を、「盗むという行為に反省がない!」と憤るようなもの。それは独りよがりで窮屈な正義感というもので、やっぱり粋じゃないとぼくは思う。ケンローチの映画と“盗み”との親和性については、都合よく「たかが映画じゃないか」と言っておきたいのです、ぼくはね。


 とにかく、どの映画であれ、どうぞ皆様がケンローチとすれ違う機会があることを心から祈っております。

長く曲がりくねった道

 ケンローチの映画を語るとき、すぐにつきまとってくるのが「政治的」を負の形容詞として使い揶揄する輩です。ケンローチ?ははぁあの左派の社会派ね、弱者に寄り添うなんて言っているエリートは大好きだよねぇ、というような“冷笑”。
 でもここは、うんそうだよ、びんびん左の社会派だよ、と思いっきり開き直ってしまいましょう。そして、生きるということは、特に弱者にとっては、人生は極めて政治的にならざるを得ないのだ、というのが、ケンローチなのです。だから、あなたが弱者なら、あるいはあなたが弱者の側に立とうとすれば、必死で手探りしていればどうしたってケンローチにたどり着く。そういうものだろうと思うのです。

 表現者は常に批判にさらされる。ケンローチも、そう。今回改めて調べてみたら、そして『ヴァーサス』という彼のことを論じたドキュメンタリーを見ても、彼は冷遇された時間が長いのです。ずっと干されていた時期がある。資本から徹底的に嫌われたからです(彼がその筋から嫌われているのは過去形じゃなくて、現在形でもあるわけですけれど)。『ケス』を撮ったのは1968年。『麦の穂をゆらす風』は2006年。その間は、38年もあるのです。その長いトンネルをくぐり抜け、彼が国際的に弾けたのは21世紀に入ってから。つまり、彼は晩成です。長い潜伏期間、彼は心の中の小さな炎を消すことなく保ち続けた。確実にそこが、彼のすごいところだったのです。
 『ヴァーサス』によるとですね、ケンローチは1991年にはあのマクドナルドのテレビコマーシャルを英国でつくっているのです。あのケンローチがマクドナルド、ですよ。ぼくもさすがに驚きましたよ(こういう表現の仕方は、今も実際に大企業のテレビコマーシャルを作成している人たちへの配慮が足りないことはわかっています。もちろんケンローチもわかっている。そのケンローチのことを書いているこのブログだからこそ、こういう表現をしています)。家族を養うお金、必要だったんです。そのとき、彼は56歳です。弾ける2000年代まで、それからまだ10年も必要なのです。『ヴァーサス』を見て、彼が不幸な事故で幼い次男を亡くしていることもぼくは初めて知りました。彼自身、ロング・アンド・ワインディング・ロード、長く曲がりくねった道を歩んでいるんだ。そう思うと、ケンローチに励まされるような気もします。人生はけっこう長いよ、俺もまだまだこれからだ!!って。

 ケンローチ、あと1本撮ってくれないかな。いや、2本でも3本でも、作品を残して欲しい。

今日の蛇足

 以下、今日の蛇足です。『大地と自由』をこれから見ようという人には、ネタバレあり。でも、ケンローチの映画は、ちょっとのネタバレがあっても、鑑賞に耐える骨太ですから、まぁ、あんまり気にしないでも大丈夫。

 『大地と自由』では、重要な役であるヒロインが、映画の中で撃たれて死にます。『ヴァーサス』で知ったのですけれど、あの展開、なんと演じている役者は、当のヒロイン役すらも、そのことを知らされていなかったのだそうです。死ぬシーンの撮影直前になって「済まないが、次のシーンで君は撃たれて死ぬ」と伝えられたヒロイン役の役者は「嫌だ、まだ死にたくない!」と撮影を拒否したのだそうです。でも映画監督なんて権力の権化ですから、ケンローチ映画の中ではケンローチがどうしたって勝つ。最後は役者が折れるしかない。そしてシーンの中で彼女が撃たれて、それを知らされていなかった周りの演者はみな衝撃を受けたのだと。
 ケンローチの映画の撮影では、ストーリーに沿って撮影が行われるのだそうです。人が自分の未来を知ることができないように、役の中で演者もシナリオを知らない。理由は、役者がその役をリアリティを持って生きるため。それだからこそ生まれたエピソードです(つくづく、監督とは神ですね)。
 改めて、そうか、だからぼくもあの映画でのヒロインの死に衝撃を受けたのだということが解ります。

 戦争を知らないともし君が言えば、ぼくは何いってんだ、それは知ろうとしないからだ!と叫ぶかもしれない。ケンローチの映画で、ぼくは人が殺されるのを何度も見た。殺すことさえ経験した気がする。映画で「見た」ことなど、どれほどの経験かと笑う人もいるでしょう。書いているぼくだって自嘲する。でも、映画だけではない。文章でも、写真でも、実際に自分の耳で聞いた“経験者”の語りからも、そういうことを展示しているような場所からも、絵からだって、音楽からだって、いまや腐るほどある映像からだって、「知り」「経験する」ことはできるはずだ。

 逆転して考えれば、たとえその場にいあわせたとしても、見ようとしない者に大事なものは見えません。経験なんぞ、できはしない。人は自分の見たいものだけを見ようとする。知りたいことだけを、知ろうとする。見たくないもの、知りたくないものは、拒絶する。見えないふりをして、知らないふりをする。

 そもそも「大事なもの」が何かを決めるのも、君なのです。君は何を見たいのか? 何を知りたいのか? 言うまでもなく、君は、ぼくです。ぼくは、君だ。君に問うということは、ぼく自身に問うことに他ならない。ぼくはいつも君に問われている。だから、ぼくたちは、とても孤独だし、でも連帯している。
 怖がらずに知れ、経験せよ、と思う。でも、経験してはいけないことはある。だから映画や他のメディアの疑似体験こそが必要なんじゃないかなぁ。想像力。たとえそれが君に眠れぬ夜をもたらすとしても。

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